ゆりら文庫

創作小説ブログ

悪魔の絵本 ~3

翌朝、小さなアパートの二階。あむかは自室で電灯も点けず、昨日の絵本を手に取っていた。そばには、持ち手が折れて短くなった筆、薄汚れた水入れの小瓶、そして鮮やかな絵の具を盛ったパレット。

「もし本当にこの本に悪魔がいるのなら……、お願い、わたしの願いを叶えて。……」

最初のページを開いて机に置いた。何を描こう。どう描こう。しばらく考えていたが、ふと思い出した。勇介の隣にべったりと寄り添っていた、年の近い派手な少女。

「勇介は良いよね。あんなに可愛い女の子に愛されて」

 あむかはパーマネントイエローレモンの絵の具をべったりと筆につけると、ぐるぐると絵本のページに丸を描き始めた。と同時に、呪文のように物語を呟き始める。

 「たまご、タマゴ、あなたは卵。片思いした小さな卵。卵はあの子が好きだけど、あの子はあなたが好きじゃない。バラバラになった恋心。あなたの心は割れて粉々……」

 そこまで呟いた時だった。

 「おい、オマエ……、そいつ、どういうことだよ……?!」

 外で聞き覚えのある声がする。あむかはカーテンの陰に隠れながら、おそるおそる路上を見下ろした。勇介と昨日の3~4人の男、そして派手な格好の女の子1人がいる。何か、口論になっている様子だった。

 「ちょ、何勘違いしてんの?あたしら、ただのダチじゃん?あたしの彼氏はタカシだから」

 「ふざけんなよ、テメェ!今朝も俺のこと愛してるって言ってた、アレは嘘だってのか?!だましやがって、このメス猫が!!」

 「ギャー!放せ!触んじゃねぇよ!」

 「止めろって!喧嘩なんかしてる場合じゃねぇよ!今日は俺らの大事な日じゃねえか。後で落ち着いて話そうぜ…」

 女の子と取っ組み合いの喧嘩になりかけた勇介だったが、仲間の制止でなんとか手を振りほどいた。

 「チッ……」

 「早く行こうぜ、ライブの準備すんぞ」

 勇介たちは険悪な雰囲気で、すずかけ公園の方へ歩いて行く。あむかはこの様子を、全て見ていた。

 (今の女の子、勇介の彼女だった人?しかも今朝までって。まさか……)

 あむかはたちまち、激しい高揚感に満たされた。恐ろしさは、ない。

 (本当だ!あの人が教えてくれた通りだ!強く願って描いたことは、全部本当になるんだ!よおし、まだこれくらいじゃ許さないわ。もっともっと、絶望させてあげる……!)

 

 

すずかけ公園の広場の一角。勇介たちのロックバンドは楽器の準備を終えて、いつでも演奏できる状態でいた。周囲にはかなりの数の観客が集まっている。観客の中には、勇介の彼女だった少女もいる。

 ボーカル・ギターの勇介が、ギターを一度ギュイーンとかき鳴らした。

 「みんな~!今日は俺たち、デビルロケッツのライブに来てくれてありがと~~!」

 歓声。

 「今日は最後まで、盛り上がって行くぜ~~!!」

 再び、歓声。

 「っしゃ~~!まずは、この曲!」

 ドラムのスティックが素早くワン、ツーと打ち鳴らされ、仰々しいイントロが一体に響き渡った。お客の歓声が一気に大きくなる。

 ところが、歌の出だしになって勇介が口を開いた時…

 「……――……、……?!」

 声が、出ない。何かが、胸の奥に詰まったような違和感。

 音楽は止まり、お客はどっと笑った。多分ちょっとした喉の不具合だろう、勇介はそう思った。ベース担当のケイが呆れたように勇介の方を見た。

 「おいおいリーダー、しっかりしてくれよ」

 「ははは…参ったな。ライブやるの久々だしな~、緊張してんのかな?…今度こそいくぜ!皆、ついて来いや~!」

 再びドラムのカウント。仰々しいイントロ、お客の歓声、そして…

 「……――……、――!」

 やっぱり出ない。歌い始める瞬間になると、途端に胸が詰め物をされたように苦しくなって、のどに声が行きつかない。

 「おい、ボーカル何やってんだよ」

 「ちゃんとやれよ、何回やり直してんだ!」

 お客がだんだん苛立ってくる。勇介だって同じように、いや、それ以上に苛立っていた。

 (くそっ、こんなの何かの間違いだ!俺は、歌えるんだ!このデビルロケッツの、リーダーなんだ!)

 三度目のやり直し。仰々しいイントロにも、お客はもう沸かない。今度こそ、あんな失敗は許されない。マイクに向かう勇介……

 (……!)

 やはり。歌おうとする瞬間に、胸がぐっと詰まるのが分かった。しかし、

 (……こんなの、知ったことかーーー!!)

 勇介はそのつかえを無理やり吐き出すように、ありったけの力で声を張り上げた。

 ◎※◆%☆∴&▼♯―――!

 勇介の口から飛び出したのは、まるでこの世の物とは思えない、地獄のような声だった。お客はみんな耳を塞ぎ、気絶する者もいた。

 「わぁああ…!何だこれ?!」

 「おいボーカル、どういうつもりだ!誰か叩き出してくれよ!」

 勇介の全身から、嫌な汗が噴き出した。両足はガクガクと震え、呆然と立っているのが精一杯だ。

(な、何なんだよ。俺、どうしちまったんだ……?)

 

 

オペラピンクの絵の具を荒々しくページにこすりつけ、ピアノを描くあむか。

 「ピアノ、ピアノ、あなたはピアノ。老いぼれピアノ。音が狂って治せない、調律師だってさじ投げる。誰も皆、あなたの声など聞いちゃいない……」

 

 

あむかは、絵の具をセルリアンブルーに変えた。筆先が紙の上を這いまわる。描かれた靴下は、汚れて穴があいたボロボロのそれを思わせた。

「くつした、靴下、あなたは靴下。汚れて穴が開いている。とてもじゃないけど治せない。ポイと捨てられてそれっきり……!」

 

 

すずかけ公園の片隅。勇介は他のバンドメンバーに囲まれ、責められていた。

「どういうことだ、勇介。あんな真似しやがって」

「ち、違う!あんなの何かの間違いだ!あんな声出したくて出たんじゃねえよ!」

「じゃあ何故出した?!」

「…それは……、ちょっと調子が……」

「嘘ついてんじゃねぇ!あんな声、あり得るか!!その前も歌えないフリしやがって!!」

「今日のライブの重大さ、一番分かってるフリしてたくせによぉ!」

 勇介は、ただただ惨めだった。こんなはずじゃないのに。こんなはずじゃ。

「もういい、お前みたいな奴となんか、やってられっか。このバンドは解散だ。行こうぜ。美奈、こんなのと付き合ってたらお前もおかしくなるぞ」

「だね」

メンバーは勇介を置いて、めいめいの場所に去って行った。バンドも、彼女も、勇介の大事な物が、全て離れていく。

「あああ……、嘘だ、嘘だろ……?こんなの、嘘だ――!」

 

 

勇介は、閑静な住宅街を歩いていた。頭の中には、あの顔しか浮かんでいない。それは、皆が去った後すぐに勇介の脳裏に浮かんできた。

(里見あむか……!昨日あいつにちょっかい出してから、こんなことばかり起こるんだ!見てやがれ、昨日のあんなもんじゃ済ませねえぞ!!)

 理由なんて存在しない。自分を襲った理不尽をとにかく発散したい。手頃な相手さえ見つかれば誰でも良かった。何となく浮かんだのが彼女の顔だったことと、昨日会ったことを無理やりこじつけた。ただ、それだけ。

やがて勇介は、向かいからやって来る、縮れた黒髪のふくよかなおばさんに会った。何とかイライラを抑えて、何もないかのように平静を装って訊ねる。

「おばちゃん。俺、人捜してるんだけど。里見あむかって人の家、どこか知らない?」

「あ~、あむかちゃんなら、3つ目の角を右に曲がったアパートに住んでるって聞いたわ」

「そこのアパート?分かった、サンキュ」

 勇介は一目散に走りだした。

(よし、分かったぞ!見てろ、あむか!あいつ絶対俺のこと呪ってんだろ!今度は俺が地獄を見せてやるからな!)