ゆりら文庫

創作小説ブログ

悪魔の絵本 ~2

公園の白い時計が、4時45分を指そうとしていた。日は大分傾き、辺りはうっすらとオレンジ色に染まり始める。すずかけの並木は、路に長い影を落としていた。

「そろそろ片付けて帰ろうかな?…のど乾いた~。何か飲み物買って来ようっと」

あむかは財布を持ってアトリエをあとにした。席を外す時はいつもやるはずの、売上金の収納を忘れて。無人のアトリエに、数人の人影が近づく。

 

 

「……?!」

近くの自販機から戻る途中、大きな物音が聞こえてあむかは凍りついた。音は、自分のアトリエがある方向から聞こえる。

嫌な予感がして、怖がりながらも早足でアトリエに戻る。

(まさか、まさか…、まさか……!)

予感は当たってしまった。数人の若い男たちが、あむかのアトリエを荒らしている。ある者はカウンターの机を蹴り壊し、ある者はパイプ椅子を振り回して辺りの物をなぎ倒している。傍では1人の女が、それをはやし立てながら見ている。

「やれやれ~!」

「おらっ、これでどうだ!」

「やめて!わたしのアトリエに何するのよ!!」

あむかが必死の震え声を張り上げると、男たちは壊すのを止めた。

「……あれ~、あむかじゃん。こんなとこで何してんの~?」

振り向いた1人の男の顔を見て、あむかは再び凍りついた。金髪にツリ目、ピアス……

忘れもしない顔だった。

(速水、勇介……!)

高校時代、あむかがおっとりした性格であるのを良いことに、いつもいじめていた。あむかが校内で絵を描いているのを見ると、水差しを絵にひっくり返したり、スケッチブックを手から蹴り飛ばしたりしたのだ。

「何で…。どうしてこんなことするの…!」

「え~これ、オマエの場所だったんだ。アトリエ?オマエの下手くそな絵で金だまし取る、いわゆる詐欺?」

「アッハハハハハハ…!」

「言うわ~勇介~、あの子泣いてんじゃん」

あむかは心臓から、悔しさと怒りが一気にこみ上げる気がした。

「ひどい…、……許せない!弁償してよっ!壊したの全部、弁償して!!」

「あ~~、うっせぇ!!オレに口ごたえすんな、生意気なんだよ!!」

勇介はそばにあった水差しの水を、思いっきりあむかに振りまいた。筆を洗ったあとの汚れた水が、あむかの全身にふりかかる。

「わ~、汚ぇ~~!!」

「何やってんだよ、俺知らね~ぞ~~っ!」

「キャ~、勇介~はやく~~!」

勇介たちは大笑いしながらバタバタと走り去った。

びしょ濡れになったあむかは呆然とその場に立ち尽くしていた。視線をゆらりと右に泳がせると、そこには無残に破壊された自分のアトリエがあった。倒れたカウンター、散らばるポストカードや似顔絵、真っ二つになった看板、曲がった椅子、ボロボロに砕けたパステル……、絶望が彼女の全身をぐるぐる回る。

(……もしかして……)

地面に転がった、木製の小物入れ。あむかは震える手で、ゆっくりと引き出しを開けた。

「……無い……!」

中には一銭も残されていなかった。勇介たちが全部持って行ってしまったのだろう。女子高生2人の大事なお小遣いも、前田のおばさんの応援の気持ちがこもった千円札も……。

あむかの目から、涙がポロポロと溢れ出した。

「信じられない…!どうしてここまでしなきゃいけないの…?!わたしがそんなに憎いの?!……憎いのはわたしの方よ!あいつら、わたしの夢を邪魔するためなら、どんな悪魔みたいな方法でも使う卑怯者なんだ!!許せない…絶対に許さない……!」

「あむか……さん?」

(え?)

突然誰かに呼ばれて、あむかは顔を上げた。誰かが覗き込んでいる。

「あの、大丈夫ですか?」

それは、端正な顔立ちの若い男だった。色素の薄い髪が肩下までまっすぐ伸びている。春先にしては少し厚手のキャメル色のコートと、同じ色の帽子。少し不思議な出で立ちをしている。

(誰だろう、この人……)

「……すみません、大丈夫なわけないですよね。ここ、あなたのアトリエでしょう?こんなに荒らされて……。怪我はないですか?」

「は、はい。怪我はないです。あの…、どうしてわたしの名前、ご存知なんですか?」

あむかが訊ねると、男はクスクスと笑いだした。

「どうしても何も、この看板にしっかり名前が描いてあるじゃないですか。ほら」

何のことはない。看板に自分の紹介を書いているのだった。

「あっっ、本当だ…!……やだぁ、もう。わたしってすぐ忘れるんだから…!すみません」

「いえ、良いんですよ。気になさらずに」

男の柔らかい物腰と人の良い笑顔に、あむかは不思議と安心していた。

「アトリエなんて、珍しいですね。もしかして将来、絵の仕事をしたいとか、お考えなんですか?」

「ええ、まあ。でも……こんなに道具とか壊されちゃ、また1から揃えるのは大変です。このアトリエもいつ再開できるか……。わたし、本当に忘れんぼでドジだし。わたしなんかじゃ、とても……

あむかは自分で言いながら、どんどん悲しくなっていた。今目の前に壊されて散らばっているのは、自分の夢同然の物たち。嫌でも目に入るそれに囲まれていると、そんな気しかしないから。

でも、男は違った。

「なれますよ。あなたなら。だって、こんなに優しい絵を描かれるんだから。どうか諦めないで」

男は散らばったポストカードの一枚を、あむかに差し出した。空を見つめる猫。受け取ったあむかの目に、先ほどとは違う涙が浮かんだ。

「ありがとう、ございます……!」

あむかは一気に自信を取り戻していた。まるで、暗い雲がサーっと晴れていくように。壊れたアトリエも、ダメになった道具も、びしょ濡れの自分も、全てがへっちゃらな気がしていた。

「どうです?もし良ければ、私の露店を見に来ませんか?」

「露店?どこに……?」

「すぐそこですよ」

 

 

男の露店は、あむかのアトリエとはすずかけの並木を挟んで、ちょうど反対の路にあった。ちょうど裏手で背中合わせの位置だったので、あむかは今まで知らなかった。自転車のかごから出され、小棚に並べられているのは、革張りやキャンバス地の手頃な薄い本。

「わあ、これ…!もしかして、絵本じゃないですか?!」

「ええ、全て海外からの取り寄せ品ですけどね」

あむかはドキドキしながら、オリーブ色の一冊を手に取った。しかしパラリと開いた途端、妙な声を出してしまう。

「あれっ…?何も描いてないじゃないですか」

「そうですよ。これらは全て自分で絵を描いて、文もつけてもらうタイプなんです」

「わあ、素敵!世界に一冊のオリジナル絵本が作れるっていう本ですね!」

あむかはすっかり童心に帰って、目を輝かせていた。

「すっかりお気に召したようですね?」

「はい。とっても」

「そうですか……。そちら、良かったら差し上げますよ」

「ええ?そんな、いいですよ…。売り物なのに。お金払います」

「いえいえ、こうして出会ったのも何かの縁。サービスさせていただきます。それにその本、あなたにピッタリなこと、この上ないですから」

「え……どうしてですか?」

不思議がるあむか。男は少し声のトーンを落として続けた。

「実は全くと言っていいほど知られていないんですが、これらは全て悪魔術に由来する本でして。本自体が魔力を宿しているのです。あなたがお持ちのその本は、人呼んで“悪魔の絵本”。それに記された事柄を、悪魔が全て叶えるという夢のような本なのです」

「全てが叶う、絵本……」

「そう。ただし、ただ記すだけではいけないんです。とびきり強い望みを込めないと、悪魔が叶えてくれることはないのです。でも、今のあなたなら……」

「…………」

「その本に何を望む?あなたは、そこに眠る全能の悪魔に何を託す?」

「……復讐を」

あむかの口が、自然と言葉を紡ぎだしていた。

「もし、本当に全てが叶うのなら……、あいつにわたしと同じ、いや、わたしの何倍もの苦しみを!とびきりの絶望を持って、あいつに復讐を!!…………?」

そこであむかは辺りを見回した。露店も人影もない。路の真ん中で佇んでいる。妙に頭がぼんやりして、まるで寝起きのよう。

「何だろう……?わたしってば立ったまま寝て、夢でも見てたのかな?」

しかし腕の中を見ると、あのオリーブ色の絵本がしっかりと抱かれている。何気なく表紙をめくると、さきほどの男の言葉がよみがえる。

全てを叶える、悪魔の絵本。復讐。

「見てなさい、速水勇介……。今度は、あなたが絶望する番だよ……」